
Yoru no ma
砂漠と旅人
風が駆けていく
それは砂を連れ立って、また知らぬ所に向かっていた
きっと彼すら知らぬ旅だ どこに辿り着くかも知らず、知ろうともせず、止むことも恐れず
かたやこの砂漠にそんな気概はない
一面ただの黄土色に染まって、僅かに波打つだけの、つまらない砂漠だ。
風が自身の肌を撫ぜる時ほど、砂漠の心を傷ませるものはなかった
風の吐息に混ざる新緑は、砂漠の奥底に眠る憧憬を駆り立てた。どこか、この身の一片のどこかにでも、緑を宿す為の素養が備わっていたら良かった。それなら、風をここまで嫌わずに済んだのだ。むしろ風を迎え入れて、彼の運ぶ草木の種々を愛おしく抱く事が出来ただろうに。
砂漠はずっと、悲嘆を湛えていた。
しかし、涙を流す為の水すら持たない彼は、ただ茫然と陽を照り返すことしか出来ないのだ。
ある日やってきた旅人は、砂漠の真ん中で後ろを振り向いた。
砂漠にはぽつぽつと自分のつけた足跡が続いている。それは人間らしくほつれた様な間隔で、ふらふらと砂丘を登っていた。
旅人は息をついて水を飲む 水筒を傾けた瞬間、ぼた、ぼたたと水が滴って、砂漠の上に落ちた。
瞬間、泣き声が聞こえてくる。声は砂漠を震わせて、巻き起こった砂煙はすぐさま風に攫われた。
「水をやるなど、余計な事をしてくれたな。おかげで泣く羽目になった。どうしてくれる。どうしてくれる。」
砂漠は慟哭する
「偶然だ。偶々だ。偶々ここを通る事になって、偶々砂丘の上で立ち止まって水を飲んで、偶々水筒から水が滴っただけだ。」
旅人は膝を折って砂漠に触れた。砂漠を穿った水滴はどこまでも沈んでいく
「本来ならお前に礼を言うのが正しいだろうな。しかし、この悲しみは水が無いからこそ抑えつけていたものだ。水が無ければ『悲しい』などと思えなかった。恵みが不幸を招いたのだ」
「そうか」
旅人の瞳は、とっくに砂漠を憐れんでいた
「悪いが、言うぞ。お前の不幸の根源は、お前が何も持たないからだ。お前が水を宿さず、肥沃な土も無く、昼夜を問わず雲も立たぬ地にいるからだ。これはお前の咎か?いいや違う。お前は悪くない。お前はいつでも悪者ではなかっただろう。しかし、お前は生まれながらに持たざるものだった。それだけだ。」
砂漠を震わせる慟哭が、旅人の言葉の一節毎に止んでいった。
「そんな悲しい事が、あっていいのか」
「良し悪しでは無いのだ。世はなべて、仕方のない事ばかりだ。『持たざるものなりのやり方を見つけろ』なんて言葉を与える事もできるが、それはまやかしだ。本当に何も持たないものは、残念だが、この世のどこかに生まれてしまう。」
「では、では、では、、、、、」
砂漠は言葉を続けられなかった。
「ではな、砂漠よ。俺は足を持つから、ここを抜けて、風と共に南に向かうよ。」
旅人の足が砂漠の上に跡をつけながら、どんどん遠ざかっていくのを、砂漠は黙って感じていた。
砂漠は考えた
では、己にできる事は、
なんだ。
風の残した波模様
旅人の残した足跡
砂漠には未だ、残っている。
砂漠はそれらを、愛おしく抱くことにした