
Yoru no ma
あるコンビニの駐車場にて
退職してから何十回目のコンビニだった。
無色の浮遊感はずっとつき纏っていた。この浮遊感が何をもたらすかといえば、欲と衝動と、馬鹿正直な己の身体であった。腹が減ったら何かを食う。のどが渇けば水を飲む。塩っ辛いものがいいのなら、甘い水がいいのなら、望むように買って呑み込む。なんとも甲斐性の無い動物だ。
この日の夜は湿気に満ちていて、振る腕も少々怠い。昼は土砂降りの雨だったせいで、小雨の夜は重く身体を包んでいた。部屋の管理された空間に籠りっきりの人間にしてみれば、これも大きな刺激に思えた。十分、二十分くらいなら晒されてやってもいい。けれどそれ以上は勘弁だ。家から歩いてコンビニで買い物をして、もう二十分が経つ。さっさと家に帰ろう。右手には冷えたカフェオレが握られていた。カフェオレもきっとこの生ぬるい空気は嫌いな筈。
家の方角につま先を向けて、二、三歩歩きだした時に、それは起きた。
駐車されていた軽自動車が、のろのろと発進しだしたのだ。
なるほど、と私は考えた。
あの軽自動車が右折するのであれば、私は左に避けるべきだ。その選択であればなんの支障も無い。問題なのは、あの車が左に舵を切った時だ。私の家はコンビニを左に出た方向にある。だから私としては、左に歩を進めるのが最短距離だ。しかしあの車が左に行くのなら、危険性を鑑みて右に行くべきだろう。
しかし、だ。そもそもこの国では歩行者が最優先、だった筈だ。細かいルールや特例があるんんだろうが、確かそうだ。であれば、私が左に踏み出す事はなんら不思議ではない選択の筈だ。たとえ車の運転手に「こいつ、俺が今から左折するってのに左にでやがった。邪魔になるだろ、くそ。」と思われようが、知ったことではない。この国のルールが、法律が私を守ってくれている。だから私は、大手を振って左に歩けば良い。
しかし温厚篤実で道徳と良心に溢れた私であれば、ここは右を選ぶだろう。正に、学校教育が求めたような人間像だ。対面した人間の心を慮り、その意志に沿って相手の為に行動する。相手が左に行くのであれば右に行って道を譲る。たとえ相手がなんとも思っていなくとも、こちらの事を見てすらいないとしても、「自分は他者を思いやれる人間なのだ」と言って自分を慰めることが出来る。素晴らしい、崇高で健全な行為に思える。
さてどうしたものか。左は合理的、右は倫理的だ。私の頭の上に立つ天秤はギシギシと音を立てながらぐらついている。こういった二択を迫られた時にこそ、その人間の本質は現れる。これまで吸収してきた知識、経験において、どの要素を重要視するのか。何に怯え、何に縋るのかを、今私は問われている。
私は昔から、人に怯える側の人間だった。他者から向けられる視線ばかり気にして、挙句はその視線を己で作り出して勝手に怯える始末。まだ鴉の方が胆力がある。通勤路によくいた鴉たちは、車が近づこうと素知らぬ面でゴミをつつく。本当に危なくなるその時まで、翼を開く事は無いのだ。その行動に含まれるのは恐怖ではない。「死んではならない」と「生きなければならない」という二つの行動規範の極限を求めた合理的判断だ。
で、あれば。私は鴉に見習って左を行くのが正解か。
いいや、私は畜生ではなく、人間だ。高次の脳機能を獲得した人間は、合理の前に倫理を重んじる。これが何千年の過去より人間が積み上げてきた社会性という美徳だ。目の前の人間が困っているなら、手を差し伸べる。自身が自由に行動を選び取れるのであれば、その自由を他者の為に行使する。
そう、今私は自由を手にしている。無職になって手に入れた浮遊感の正体こそ、自由だったのだ。今私はこの自由を使うのか、使わないのかを迫られていたのだ。それは、人間と畜生を分ける交差路だ。
私はその手に携えた自由と共に、悠然と右を向いた。さあ、お前は好きに動けばいい。私はお前の為に自由に動いた。だから気にせず。
そして軽自動車は、道を真っ直ぐと横切ると、向かいにある家の駐車場に前向きに車を停めた。
私の自由は湿度の中に溶けて、気付けばどこかに霧散した。